カテゴリー「おすすめ本の紹介」の12件の記事

再び、スウェーデンの中学教科書より

(関連過去記事→)スウェーデンの中学教科書

(文書訂正あります)

51pedqkkcwl__sl500_aa240_ 2005年2月に行われた皇太子殿下の記者会見で紹介されたスウェーデンの中学教科書『あなた自身の社会』(新評論)のある書評にあった言葉が心に残る。

『日本の教育は「どんなことを知っているか」を重んじ、アメリカでは「どんなことができるか」を重視し、スウェーデンでは「どんな人であるか」を大切にしているか、を読み解くことが出来る。』

日本の中学社会の教科書を読んで、実社会に通じるだろうか?
『受験のための暗記』そういう勉強でしか印象のない社会科であり、中学時代であったと思う。

自分の子どもには、どんな人であるかの前に、「どんなことを知っているか」ということを強いていた。
ところが、荒れた学校と同級生の暴力が引き金となって長男の不登校や私と同じように自信のない引きこもり願望の高い長女という現実に直面する。

不登校の実情や引きこもる子らの心の内を探っていくうちに、それらを構成する子どもたちの学校という狭い社会に対するストレスやイラつき、地域のおとなの関わり方を考えるようになって自分に「何ができるか」を考えるようになった。

そうしたとき、『私はどんな人であり、親でありたいか』という社会・地域の一員としての在り方をまた考えるようになっていた。
そういう姿を見ているのが、わが子であり、友人であり、子どもたちであり、それは、おとな(私)に対する信頼につながる、という思いを持った。

この社会(日本の公民に相当)の教科書は、リアルな現実の出来事さながらの内容やエピソードで構成され、
自分たちの身近な生活の中で起きているいじめ、親の離婚、少年犯罪の被害者と加害者、失業中の家庭のことなどが、理想的な家庭で育つ子どもばかりではなく、理不尽な扱いや不満もある多感な君たちへ・・・という社会の中のすべての一員である8年生(日本の中2)の子どもたちに問いかける内容になっている。

負の社会がもたらす暴力や貧困、犯罪や差別・・・自立していく子どもたちに権利と社会保障があること、そのために社会の一員としての自分をそこに置き、共にみんなと考えていく、関わりあうことに標準があてられているような気がする。

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スウェーデンの社会の教科書

平成17年2月21日に皇太子殿下が記者会見で、お子様の養育方針について語られたときに、出会った本として紹介されたのが、『ドロシー・ロー・ノルトというアメリカの家庭教育学者の作った「子ども」という詩で、スウェーデンの中学校の社会科の教科書に収録されております。』という部分で、詩の内容は・・・

批判ばかりされた 子どもは
非難することを おぼえる
殴られて大きくなった 子どもは
力にたよることを おぼえる

笑いものにされた 子どもは
ものを言わずにいることを おぼえる

皮肉にさらされた 子どもは
鈍い良心の もちぬしとなる

しかし,激励をうけた 子どもは
自信を おぼえる

寛容にであった 子どもは
忍耐を おぼえる

賞賛をうけた 子どもは
評価することを おぼえる

フェアプレーを経験した 子どもは
公正を おぼえる

友情を知る 子どもは
親切を おぼえる

安心を経験した 子どもは
信頼を おぼえる

可愛がられ 抱きしめられた 子どもは
世界中の愛情を 感じとることを おぼえる

「子どもが育つ魔法の言葉」より

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

当時、この詩がマスコミによって報道され、話題になった。

『子どもを愛情豊かに育てるために、親は子にとって、社会の鏡となるべき姿を子どもに示す大切な社会の一員である。』という内容である。

51pedqkkcwl__sl500_aa240_このとき、あまり話題にならなかったと思うが、この詩を紹介したスウェーデンの教科書『あなた自身の社会』は、中学2年生の日本でいうところの『公民』の教科書に該当する。

この詩が書かれているページは、「家族への援助」という社会保障の部分で、日本に限らず中2の14歳といえば、反抗期真っ盛りで、家庭環境の状況や友人とのつながりによっては、刑事事件や軽犯罪で横道に逸れだした頃でもある。

この詩のある部分を勉強するのが、そういう年代の少年少女である。

さらに、詩を読んだ後の課題が「あなたは詩のどこに共感しますか?」「この詩は、おとなに対して無理な要求をしていませんか?」と続く。

必ずしも、詩の伝える「理想の幸福」が、世の中の全ての子どもやおとなに当てはまらない、ということをきちんと伝え、考えさせている
この問いに子どもたちはどう答えるのか、知りたい。

この教科書と詩をお読みになり、紹介された皇太子さまご自身、適応障害と診断された雅子妃を支え、発達障害では?とささやかれたお子さまを愛情豊かに接してこられた、そのお人柄は素晴らしいとつくづく感じた。

『日本の教育は「どんなことを知っているか」を重んじ、「アメリカでは「どんなことができるか」を重視し、スウェーデンでは「どんな人であるか」を大切にしているか、を読み取ることが出来る。』・・・書籍紹介にあった書評より

社会の一員として、どういう自分であるか?どう生きるか?自分自身で見つめる姿勢を持つことは、おとなとしての課題でもある。

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地球(テラ)へ・・・私の愛読マンガ

K_take01 『地球(テラ)へ・・・』
竹宮恵子が、月刊「マンガ少年」に、1977~1980年まで掲載していた有名な長編SFマンガを久々に読んだ。

私が10代の頃は、竹宮恵子「地球へ・・・」「ファラオの墓」、萩尾望都「ポーの一族」「11人いる」といった少年にスポットをあてた少女漫画に夢中になった。

実家が新築したとき、こともあろうに納戸に押し込められていたものをうちに持ち帰ってきたのだけれど、しばらく読み返すヒマもなかった。

先日、大学生になった長男が、
『本箱にあった「地球へ・・・」って読んだけど、お母さん昔アレ読んでたの?すごく内容がイイよ!』
と絶賛してくれた。

なんだかとても嬉しい・・・私の青春時代にとても好んでいた本、それも酸化して茶色くなった30年前の本をあの頃の私と同年代になった息子が夢中になって読んでいてくれたということに・・・

そして、しばらく彼の部屋に持っていかれたままだったので、取り返して読みふけった。

・・・あらすじ・・・
三×××年、ワープ航法を可能にした人類は、欠乏する資源を求めて三千光年四千光年をとびこえて行った。
しかし、急速に衰え始めた地球自体の生命力だけは、どんな研究も空しくとりもどすことができなかったのである。
大気汚染、自然破壊、地下には分解不可能な毒素がたまり、生命の源・海からは魚影が消えていった。

老いいく地球・・・人間たちこそが地球を窒息させるのだ、という結論に達した。
環境破壊で滅亡の危機にある地球を再生させるためにとったのは、人類を特殊統治体制(スペリオル・ドミナント)=通称SD=完全な生命管理の社会体制だった

学者たちの手によって完全にマザーに支配されたコンピュートピア(コンピューターに制御された理想郷)で子どもは生み出され、殖民惑星で選ばれた養父・養母に14才まで生育され、14才で成人検査を受ける。

成人検査でパスするとその能力によって地球のために奉仕する記憶(洗脳)が与えられるが、特殊な能力を持つ者たち「ミュウ」の場合、またそれまでに発覚した場合も体制を揺るがせる存在として抹殺される。

ミュウと判定されたジョミー・マーキス・シンは間一髪のところをミュウの長ソルジャー・ブルーによって助けられる。
ブルーに才能を見出されたジョミーは、ソルジャー・シンとしてブルーの遺志を継ぐ。

「ミュウ」たちは、政府の目から逃れ、息を潜めて考えていた。
「自分たちは何者なのか?」
「何のために存在するのか?」
「地球システムの真意とは?」

自分たちの存在を認めて欲しい、まだ見ぬ故郷星・地球への強い想い・・・人類VS新人類彼らの地球を目指す戦いの旅が始まる・・・・。という内容。

ミュウは、体のどこかに不具合があって、そして秀でた能力を持ち合わせているため、異分子としての扱いを受け迫害される。

一方、マザーによって生活のすべてを支配され、感情もコントロールされ、それを疑うこともなく整然と生きる多くの人間たちだが、感情を制御できる良質のエリートにはミュウの因子が受け継がれていることがわかってくる。

死にかけた地球を救うために殖民星や宇宙船で暮らす人々に植え付けられる地球という故郷星への思慕は、愛国精神のようであり、その忠誠心で以って新人類「ミュウ」への迫害や密告というねじれを生み出す。

試験管で育った子どもはコンピュータであるマザーが母親で、理想的な家庭に送られて養父母から愛情を注がれ、教育を受け、密かに監視され、14才にして全く別の役割を与えられる。
全ては愛する地球のために別のコロニーに送られ教育を受け巣立つという設定なのだ。

地球を破滅させてきた現在の私たちの時代に生きる人は、すでに家庭の存在が壊れ、社会での役割が希薄で愛国心もないという者たちもいれば、戦争に明け暮れる独裁者のいる自由のない国に生きる人たちもいる。

危険分子のミュウを排除し、忠誠心のある人類だけで地球を立て直すために他の星に移住する・・・なんて、遠くもない話のような気さえしてくるが、矯正ではなく共生の道を歩んでもらいたい。

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この国が忘れていた正義<日本は加害者に甘すぎる>

9784166605828 (立ち読み→)中嶋博行「この国が忘れていた正義」本文より
著者:中嶋博行(文藝春秋)

日本は加害者に甘すぎるという帯タイトルに共感する人は多いだろう。

著者は弁護士として、「犯罪被害者支援」や「いじめ」問題に取組んでおられ、今の日本は、加害者の更生を理想に掲げる犯罪者「福祉型」社会である、という日本の司法システムの問題点を鋭くえぐりだした上で、「正義」実現のための方策を問いかけている。

犯罪者福祉とは、犯罪者の更生改善を国家目標とする社会である。この社会においてはまず犯罪者の立ち直りに尽力が注がれ、さらにセカンド・チャンスが与えられる。犯罪者が更生すれば、関節的に社会の安全も守られるという論法で、社会防衛は二の次である。

犯罪者福祉先進国のアメリカがそのいい例だった。

反戦平和運動が盛んに叫ばれ、カラーテレビが普及した豊かなアメリカの60年代。
犯罪者にも寛容なリベラル派によって、「犯罪者更生プログラム」「治療(メディカル)モデル」として、職業訓練や教育によって人としての再生を図る。

その後10年、70年代の再犯率70%以上、ニューヨーク市にいたっては犯罪者の86%の者に重罪の前科がみつかったという。
「更生プログラム」によって社会に犯罪者を送り返したことになるとともに、「犯罪社会」を作り出した。

この更生プログラムは、税金によってまかなわれており、「人権」という概念も発端から洗い直し、犯罪者保護に過剰に傾いた「人権」を被害者主体へと転換して被害者救済のための改革案を示している。

気づきのアメリカは、70年代以降「出現しつつある考え方は、刑務所は悪人を苦しめる場所であり、それ以外の何物でもない」という・・・新しい政策「正義(ジャステス)モデル」によって、社会を犯罪から防衛するには、犯罪者の心をいじるのではなく、彼らを徹底的に隔離し、無害化するということを実現していく。

中でも80年代は、性犯罪者は再犯率が高く、性癖は直らないということを示す事件の教訓として懲役刑45年を求刑された少年野球チームの監督の裁判で、驚きの司法取引を行い判決をした。・・・20年の減刑と睾丸摘出手術を受けることで無害化したのだ。・・・「ミーガン法」、「三振法」など

本著では、日本の犯罪者「福祉」予算に2200億円、囚人一人当たりの収容費・作業費(年額80万円以上)、人件費・官署費を含める年額330万円、囚人一人に対して毎月28万円の血税を使って「再生プログラムに消えていくことに疑問を投げている。

民芸品などのコストの低い生産で得られる1年分の作業報酬金9万円に対して、1年分の食費20万円ですでにマイナスなのだ。

そもそも利益を出して賠償させるという「犯罪被害者の救済」が目的ではない。刑務所労働は、あくまでも「犯罪者の更生改善」を目的として行われているにすぎず、罪の償いというには無縁のものとなる。

著者は、江戸川乱歩賞作家だけあって、日本の刑事罰制度の現状や矛盾点を要領よくまとめ被害者救済の改革案を示す、読み応えのある一冊だ。

日本は、30年以上も前に破綻したアメリカの「更生プログラム」を続けているのだという。犯罪者の増産を・・・

犯罪被害者の立場の何とも割り切れない思い・・・懲役刑に服している犯罪者は、懲らしめに合っているわけではなく、現状は被害者は置き去りである。

仕事もなく餓えて死ぬ善人がいる社会の一方で、医療・食事・資格取得・適度な運動・軽作業による作業報奨金が与えられ、30分の自己反省の時間に被害者に謝罪の意を込めた反省が本当にあるのだろうか?

少年法においても、「厳罰化の是か非か」議論、「犯罪者の更生は幻想」、「再生プログラムの無駄」と断じている。

そして、いじめ、少年犯罪にも容赦なく切り込んで正義を問う。

学校でおこるいじめは、暴力や恐喝、恫喝、性的暴行であり、犯罪である。
「教育問題」としてみるのか?
「犯罪問題」としてみるのか?
また、「シカト(無視)」や言葉の暴力は、いじめという犯罪ではないのか?

ここでも「社会で許されない行為は、学校でも許されない」という自論を持つ。

  ーーーーーーーーーーー

ここのところ、精神鑑定を行う猟奇的な凶悪犯罪者が多く、私たちのごく身近な日常に潜んでいる。「サカキバラセイト」はその先駆者で、「更生特別プログラム」によって全く別の履歴を持って出所した。

猟奇的殺人をして出所する元少年Aという少年法に守られた青年たちは、実は身近に存在している。

ベールがかかった犯罪者の犯罪に駆り立てられた心理がどこまで再生プログラムによって改善されて社会に返されたのかを知る必要はあると思うのだけれど・・・犯罪にいたる詳しい状況はネットで、かいま見られる。

私たちは、そういった事実にどこまで寛容でいられるか?
そして、残酷な加害者に対して排除することにならないか?

加害者が自分の犯した罪を真摯に受け止め、被害者に対する謝罪と償い行う必要があり、被害者も受ける権利がある。犯罪という罪を社会が許さないという姿勢を小さなうちから植えつけていかなくてはならない。

そうした上で寛容さについても学んでいくことになるのだと思う。

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「ないものばかり」を求め過ぎていませんか?

coldsweats01お詫び:読み辛い箇所がいくつもありました。気がついたところは訂正してあります。

31679752 『ダメな自分を救う本』(石井裕之 著、祥伝社)

いつまでも自分のまわりにいる人のせいにばかりしていても、なりたい自分にはなれない。毎日出来ると思える小さなハードルを乗り越えることから始めよう!

理屈ではわかっていても、何からどう始めていいのかわからない。そういうときに、わかりやすくて読みやすい、オススメの本です。

潜在意識という深いところで自分を動かしている「もうひとつの心」、その「もうひとつの心」が意識に上手く働きかけることで、本当になりたいと思っている理想の自分にしてくれる。
『ダメな自分は、その潜在意識に対して、「ないものばかり」を求め過ぎてきたからだよ。』ということがよくわかる。

不登校やうつといった状態の人にもいえることだが、この「ないものばかり」を求めるということは、『本当はダメじゃない自分』という理想としているイメージや最高に晴れやかだった頃の自分という『これから目指すべき自分がある』ということにつながり、そのためになにをすればいいのかを『今の自分にも、続けられること』を考えてみればいいのだ。

しかし、どうしても自分の今「ないもの」に対して、いつまでもこだわってしまう・・・
「もう少し、痩せてさえいれば嫌われることもないのに・・・」
「親に財産があったら惨めな思いをせずにいられたのに・・・」
「あの人のせいで、いつも貧乏くじを引いてしまう・・・」
人や境遇を変えなければ一歩も踏み出すことが出来ないものを求めてもいつまでも変わらないし、踏みとどまっても何一つも変えることもできない。

潜在意識は、「ないもの」「~しない」「~がない」ものを理解できない、ということだ。

例えがわかりよい。小さな子どもは潜在意識の塊のようなもので、『走っちゃダメよ!』というと、この『~してはダメ』に理解できない反応をしてしまうのだという。だからひたすら走る、という具合になる・・・この場合、『ゆっくり歩こうね』という否定形でない言葉をなげかけることで理解し、行動になる。

今、できること。毎日、確実にできること。どんなに小さな目標でも、毎日ちゃんとできることか?
その出来ることのハードルを続け自信がつくたびに、もう一歩踏み出して、次に毎日出来ることを考えていくということが「いそばがまわれ」と言われてきた教訓だ。

そういえば、今日(5月1日)の「徹子の部屋」に出演した作家の岡田斗司夫氏(『いつまでもデブと思うなよ』:新潮社)の50キロ痩せるためにしたことも、そういった体験をまとめて紹介したものだった。

毎日、食事前に体重計に乗って、食後の体重と比較するという『出来ること』からはじめたという。そのうちにカロリーを調べ食べたいものを食べて、そして体で太るものを摂った時の体験と事実を知り覚える。これを記録していくうちに自然に摂取しなくなり、痩せたという。

ダイエットのために、いきなりカロリー計算で一日の食事制限をして、運動メニューを立てて・・なんてことが、続けられないでリバウンド・・・なんていう苦しい思いをするより、毎日出来ることを無理なく続けていくうちに、こうしてみよう、ああしてみたらどうなるか?などという目標や夢への実現に向かって、潜在意識の中で、『できること』を続けていったことが、結果として出た素晴らしい成功例だと思う。

本を読んで理解するだけでなく、行動に移すことで、理屈ではわからなかったことが、体験したことにより理解するのだ。この本をまた読み返しながら、最近また気持ちが後退していた私だったと反省をしてしまった。

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『千と千尋の神隠し』と生きる力

ジェネラティビティ・クライシス』の著書の中で、『千と千尋の神隠し』というアニメが大ヒットした2001年6月にNHKで小此木氏と宮崎駿監督との対談の内容が紹介されていた。

宮崎監督は、60歳を迎えた年に、初めて現代日本の少女を主人公にした作品に取り組み、子ども達にどうしても伝えたいメッセージを送り続けた。

人が人を支配することとはどういうことか、権力とは何か、悪とはどういうものなのか?
10歳の子ども達が遭遇しているものとは何か?
自分を自分として認めてくれているのか?
そういった現実社会において、生きていくために何をしていかなければいけないのか?

宮崎監督は、映画という世界を通して子ども達に、ジェネラティビティを行ったといえる。
現代をいかに生きるか、『生きるための力』を育むためのメッセージを伝えている。

映画の中の湯治場は、子どもを溺愛するという一面を見せる冷酷な支配者の『湯婆婆』がおり、カエルやナメクジ顔の男女が現代社会のようにあくせくと働いている。働かなくては生きていけないという社会に投げ込まれた現代っ子の『千尋』、『千』という名前にされ薄らぐ記憶、『千尋』という自分らしさ(アイディンティティ)も取り上げられるという残酷さがある。

現実社会もまた、自我に目覚め始めた年頃の子ども達にとっても理不尽な思いの中で生きていくことで、自分という存在を見失わないようにすることは至難の業でもある。

湯治場に来る八百万の神々も、皆疲れきっている。『オクサレ様』は高名な川の神にも関わらずヘドロとゴミで酷い有様だ。『ハク』は、埋め立てられた川の神でもある。自然界に人の生のために利用されてきたモノには「ありがたい」神々が宿っていると信じてきた時代があった。もはやその自然も破壊され、汚され、使い捨てのモノが溢れて、「ありがたみ」も消えていく。

『千尋』に付きまとう『カオナシ』によって、現代社会の病理を表現している。コミュニケーションがうまく出来ない、欲しいと思ったら手に入れるがためのどん欲さ、切れると手に負えなくなる怖さ、お金で人の心までを手に入れようとする姿だ。孤独で人恋しいがゆえのなんとも不器用な表現だと見ている大人はわかるだけに、『千尋』の一生懸命さ、聴こうとする姿は見習わなければならない。

子どもには「生きる力」がある。
例え、困難が待ち受けていても乗り越える力がある。

そういった機会を大人が先回りをして手助けしすぎてはいないか?
そういったことを考えさせられる映画を、現代社会に投げかけ、子ども達を応援していることを教えてもらった私の好きな映画のひとつだ。

<『千と千尋の神隠し』ストーリー>
10歳の主人公千尋は、現実社会に多く見られる両親に甘え、ひ弱で消極的な少女だ。両親と迷い込んだ不思議な世界は、八百万の神々が疲れを癒すために来る湯治場があり、湯婆婆という魔女が支配をしている。人間が来てはいけない世界で、豚にされるか喰われて消えてしまうしかない。豚にされた両親、生き残って両親を探すために、千尋は名前を取り上げられ「千」という名前をもらいこき使われる。本当の自分を失いそうになるのだが、「ハク」という少年との友情、献身、知恵を発揮し自分と両親を取り戻す。「生きる力」に目覚める。

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ジェネラティビティ・クライシスをめぐって

31356474 <次世代を育む心>の危機 ジェネラティビティ・クライシスをめぐって
 小此木啓吾 著/慶応義塾大学出版会

地域の会のカウンセラーの先生のお話の中に出てきた「ジェネラティビティ・クライシス」という聞きなれない単語。さっそく調べてみると、興味や関心のある内容だったので購入した。

ひきこもり、児童虐待、うつ病といった現代社会の心の病を思春期や中高年、家庭や社会の現状から解き明かす内容のものだ。

今、子ども世代に起きている問題や心の病み(闇)は、大人の社会が大きくかかわり反映している問題でもある。ただ単に、『今どきの若者は、軟弱な!』などといぶかっていられる問題ではない。

終戦やバブル期、その自分達が生きてきた時代だけを一生懸命支えてはきたが、自分達の孫やその後の世代にどういったツケが回ってくるか?そして、回ってきたか。いかに、問題意識を置き去りに生活してきたかを問うものでもある。

モノを豊かにしてきた時代に取り残してきた心、次世代に残すものは『心』を育むこと、それを育成する大人達の危機管理意識であると伝わってくる。

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走り続ける父親の姿

31933157_2 それでもぼくはり続ける(永井恒 著、静岡新聞社)

浜松在住の会社員、永井恒さん(51)が、約10年をかけ、47都道府県で開催された市民マラソン大会での優勝を果たした。永井さんは、耳がまったく聞こえない聴覚障害を持った方だ。

永井さんは先天的な障害で耳が聞こえない。
4男1女の兄弟で、姉も聴覚障害があったが、耳の聞こえる両親はそれが理解できず、親戚の人が来ると「恥ずかしい」と2人は隠された。なぜなのか理解が出来ず、小さいときは、遠慮や引け目があったという。

ろう学校のおり、校内マラソンで優勝しトロフィーをもらい、生まれて初めて「勝つこと」ができた。嬉しい!もっと走りたい!そう思った。

このとき、人間として負い目を感じることが大きな障害だと感じた。

83年には、フルマラソンの「ろう者国内最高記録」(2時間31分30秒)を達成し、06年まで保持した。98年には、北京国際マラソンで3位、07年2月までに270以上のレースに出場し、104勝を挙げた。全都道府県制覇の、最後に残った岡山県の笠岡ハーフマラソンでは、1時間21分19秒の50歳以上の部で大会新記録と共に目標を達成した。

一時マラソンをやめた時期もあった永井さんがまたマラソンを始めたのは、小児がんと診断され、抗がん剤治療を受け病気と闘う2歳の息子(現在、高1)のためだった。

息子も聴覚障害があるため、苦しさ、辛さを声に出して訴えることができない。聴覚障害の妻も自分も、応援や励ましの声を届けることができない。音のない世界で苦しむ親子の姿、時には奇声を発してしまっていることもあった。

困難を乗り越え、たくましく生きることを息子の将来に重ね、再び走り続けた。

優勝するまで何度も挑戦する永井さんの姿に、沿道で見知らぬ人達が声援を送る。しかし、彼の耳にその声が届くことはない。時間やコースの間違い、追ってくるランナーの足音に気づかないなど、聴覚障害者ゆえの困難も多くあった。

「障害者の体力は弱い」という印象を打ち破るためにも走った。

優勝のメダルを手に、90歳の両親のもとに行き、筆談を交わす。年老いた両親の喜ぶ笑顔を見たいと思う永井さんの姿には、「頑張った自分を見てくれ」という思いが伝わる。

永井さんの姿には、子どもの頃に味わった「負い目」の克服、自分への「自信」、両親への「認めを勝ち得る姿」、子どもに見せる「障害を克服する姿」など、学ぶところが多い。

言葉がなくても伝わるものがある
多くの家庭の父親が、社会のストレスを背負い元気がなく、子どもとの会話が減少傾向にある。父親の生きる姿勢を子どもに見せる、それだけで伝わるものはあると思う。

(NHKの「いきいき夢きらり」と毎日新聞ユニバーサロンから)

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友達いないと不安だ症候群

41kwdf1mw5l_aa240_友達いないと不安だ症候群につける薬』 (著者:齋藤孝、朝日新聞社)
「友達がいないと不安だ。」という気持ちと裏腹に、「そんな友達と、どうして無理しているの?」と思えることもある。
「いざとなったら独りでもいいじゃん!そんな選択もあるんだよ。」

いつも思うのだけれど、体験者の生の声で語られた話は、心を揺さぶらされる。

これまでにも、子どもをいじめによる自殺で亡くされた親御さんのお話をよく読む。子どもを亡くされた親の身の引きちぎられるような、「学校にいかなくてもいいよ。」って、何故、言ってあげられなかったのか!っという自責の念が込められているもので、不登校やいじめにあっている親の共感を呼ぶ。

この本の中で、いじめ問題として使用された『「葬式ごっこ」八年後の真実』(著者:豊田充、風雅書房)の鹿川君の事件と当時クラスメイトだった男子生徒で、この証言した当時大学生の青年のインタビューの記事が紹介されていた。

このインタビューの青年は、私の最も気になる『傍観者』であるクラスメイトの話である。
傍観者とは?
・・・当事者にならず、ただ見ているだけの人。場合によっては、責任の意識がないだけ加害者よりたちが悪い。見て見ぬふりをする人。

青年は、傍観者としての罪の意識から謝罪をすることはない。当時のクラスの中で、いかに自分という存在の位置付けを保たなければ、自分も立場が逆転していたかもしれないという大多数の傍観者が持った考え、感じたことや苦しんだことを冷静に話している。

事件についてのインパクトも強いが、大多数の傍観者になりうる生徒にとって、この青年の声は共感できる授業になったのではないかと思う。

いじめのある教室には、1人のいじめられっこと、数名のいじめの首謀者と多くの傍観者、担任によって構成されている。2対8の法則でいうなら、8という大多数の傍観者が2の存在によって影響されたことになる。また、2の影響を止めることもできたはずなのだ。

それができなかったのは、ひとりでいることの不安をみんなが持っていたからだろう。
『何かでつながっていないと』という不安は、何かを共有することで保つことができる。

例えば、いじめる側の子たちは、いじめに加担することで仲間に認められたという喜びと、次はどうやって苦しめようかと考えるのが楽しいという時間を共有すると言われている。

特に、中学生になると、『弱さ』を人に見られたくないという気持ちが働き出す年頃でもある。社会の格差に存在する上下関係を『力』でもって示すのではないかと思う。

友達の本来の意味合いである『心を許しあい、対等に交わっている人』から、かけ離れた仲間か?仲間でないか?という、何かを共有することで友達でいられると安心している部分がある。

自分の好きな世界であり興味のあることがあって、自分という存在だけで、孤独でもいられる。そういう自分への認めがないと、『無理に何かを共有しようとしなくてもいいんだよ。』とは言えない。

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多くの無意識の中にみる「世界がもし100人の村だったら」

Ss1361『世界がもし100人の村だったら』(著者:池田香代子、マガジンハウス)という本が2001年に出版された。

動画で見る「世界がもし100人の村ならば」
(クイックすると動画が見られます)

これを読むと日本という国がいかに恵まれているか、ということが見えてくる。「自分は、恵まれているんだ」という意識で満足する、自分への肯定感を持つ人も多いと思われる。そこから、他者へ想いをはせる気持ちが生まれるのだから大切なことではある。

それは、その恵まれているハズの私たちの世界でもまた、格差社会の中で喘いでいる人や、病気、孤独、苦しみに脅かされている人がいるからだ。

少数の苦しんでいる人を無視する(もしくは、見えていない)大多数の人、という点においての『いじめ』の世界から想いをはせてみた。

いじめを受けるのは極少数のターゲット、そして首謀者や取り巻きと、それをあおったり、加担する人達がいつも槍玉に挙げられる。事件の後に、インタビューを受ける「いじめはありました」と答える子、大多数の人は、「目立たない普通の子、気がつきませんでした」と答える。

日常化している「いじめ」は、「ふざけ」にしか見えない「いじり」で周りの大多数の人は、麻痺をする。いじめられている子は、悲壮感の表情を漂わせているか、道化と化して、引きつった笑いでごまかしているかの違いがあるだけで、こころがズタズタにされていることに変わりは無い。

クラスの中では、いじめに口出しをする行為は、次の標的にされる怖さもあり、一概に攻めることはできないし、知っていてもどうすることも出来ないという苦しさを持ってすれば、言えない状況を作りだしている責任は、クラスや担任も持っている。

現状を維持することで、他者にまで想いをはせるところに至らない、この麻痺的な状態の中で、無意識に暮らしていることは多い。
『子どもの世界は、大人の世界の投影』であることを忘れてはいけない。

一人で、立ち向かうことは困難なことだが、それ以上に人を動かすことは困難だ。
人は、他人に動かされることを嫌う。自分の意思でもって動かない限り、反発が必ず起きる。

それでも、一人の言動に多くの人が共感し、動かされることがある。
その人の言うことが事実を語っているとき、その人の行動が自分の意思でもって動いているとき、自分に対して敬意(意思の自由)を払われたときだ。

こういった共感を呼ぶ人の出現で、多くの無意識の中に生きる人のこころがひとり、またひとりと動きはじめる。そいう人が自分の近くにいるといいですね・・もしかしたら、だれにも、そういう素質はあると思います。

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水の結晶のおはなし

5・6年ほど前に、江本勝さんの『水は答えを知っている (サンマーク出版)』という本が話題になった。

言葉や音楽、そして紙に書いた「文字」の内容にも反応して、姿をを変えていく水の結晶の写真がちりばめられていて、とても美しくもあり、驚きでもある。その結晶に込められたメッセージを読み進めていくと、『意識の波動』についての意味が見えてくる。

物質的に見れば、人は水から出来ている。水を知ることで、宇宙・自然・生命までも知ることになる。

水は、心のうつし鏡のように、水に送った波動を形にして見せてくれる。
「美しい」という波動を送ると、美しい姿を見せる。
「汚い」という波動を送ると、醜く悲しい姿に変貌していく。
水は、心のうつし鏡のように、人に送った意識の波動を形にして見せてくれる。

普段、何気なく使う言葉の中にも、その言葉の持つ波動の不思議な力が宿っていることに気づかされる。(実験は、紙に言葉を書いたもので、水は反応していく)
例えば「・・・しようね」の結晶は、可愛らしい花のような結晶になり、「・・・しなさい」の結晶は、壊れた形の結晶となる。

その発信した言葉や意識は、相手だけでなく、自分自身にも返ってくる波動であるということを忘れてはいけない。
愛や賞賛、感謝の波動は、開花させる力。
悲しみや恐怖、絶望の波動は、腐敗させる。

「水の安全」からみると、水道水に含まれている「塩素」のために、世界の水は毒素で結晶は歪んでいる。スイスのベルン以上にニューヨーク・マンハッタンの水が以外にもきれいな結晶を作り出している。杉樽が給水塔に用いられているためらしい。なんといっても、名水の名のある湧き水や酒どころの水は、宝石のような美しい結晶となっている。

ただ、浄化するだけでなく、「ありがとう」の言葉があるだけで、おいしく飲むこともできるという。しかし、浄化すれば済むという問題ではなくなってきている。
人は、水がなくては生きていけない。その水が汚染され、地球規模で破壊されているという事実がある。それは、人が作り出しているものであり、意識の波動を変えていかなければいけないというシグナルなのかもしれない。

(水の結晶の写真→) 水の結晶

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「引き寄せの法則」で、幸せな一年に

あけましておめでとうございます。
今年も素晴らしい一年になりますように・・・

「幸せな一年、幸せな一日でありますように・・・」
幸せを願い、希望が叶うという人は、一握りの人だけだと思っている人は、すでに幸せを叶えることを断念しているに等しい。

「私は、幸せになる!」と強く願う周波が、あればあるほど、自分に幸せを引き寄せるという。これを、「引き寄せ(引力)の法則」といい、まだ未知の世界でもある脳を科学的に解明する脳機能科学の分野で、解明されようとしている。

身近にいる人に感情を伝えるのが「言葉」、「表情」、「しぐさ」だ。
「言葉」は、言霊ともいい、心に感じた想いを言葉で伝えると魂(心)に伝わる。音楽や物語の語りべの声も、心音に近い波動で伝えると心地よい。声の抑揚や言葉使いで、波動も変わるし、さらに「表情」や「しぐさ」で、相手を引きつけることもできる。

それ以上に、脳の波長「脳波」が、自分の身に起こる全てのものを動かすことができるというのが、この法則の理論だ。時間の壁を超えて、想い描いた良い方へも悪い方へ動かせるのも、強く想い描いた脳波の成せるわざということだ。

これまでにも伝えてきた「発信体」である自分が、
「自分は、ダメだ。ダメな人生だ。」と絶望してしまうことによって、殻に閉じこもる。
「自分は、大きく伸びたい!素敵な人生に変えたい。」と夢と希望を願うことで、世界は広がり、幸せを呼び込む。

これまで自分(あなた)は、何を引き寄せていたのか?
今、自分(あなた)は、何を引き寄せようとしているのか?

2006年3月にインターネットを通じて、全世界に知られるようになった。10月末に本も出版され、全米で700万部のベストセラーにもなった。DVDにも登場する著者のロンダ・バーンの『ザ・シークレット』(角川書店)。今は、増刷本が売られている。
↓お時間のある方は、一度DVDをご覧になってみては?
『The Secret』ザ・シークレット公開DVD25分 

ここのところ書店へは、目的の本を買う程度の立ち寄りだったので、最近まで知ることもなかった。引き寄せに関する本の中には、宗教的なものも多いようですが・・・

ビジネスコーナーにあるものとして、
「引き寄せの法則」  マイケル・J・ロオジエ著 (講談社)
「ダメな自分を救う本」       石井裕之著 (祥伝社)・・・私の購入本。
「引き寄せの法則 エイブラハムとの対話」
     ジュリー・ヒックス/エスター・ヒックス著(ソフトバンククリエイティブ) など

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